略歴永六輔の足跡

年・年齢 略歴・エピソード(*敬称略)
昭和8(1933)年
0歳
4月10日、神田・御茶ノ水の順天堂産院(現・順天堂大学医学部付属順天堂医院)で6人きょうだいの二番目、次男として生まれる。本名・永孝雄。
生家は浅草永住町(ながすみちょう)、現在の台東区元浅草3丁目にある浄土真宗の最尊寺。父・忠順は十六代目住職。母・登代も浅草の寺の生まれ。近所に役者や芸人も多く、昼下がりの銭湯では寄席に出かける前の芸人と一緒になったりする神田生まれの浅草育ち。
昭和11(1936)年
3歳
ベルリンオリンピックのラジオ中継に熱中していた両親や近所の人たちのことを覚えている。
昭和12(1937)年
4歳
「非常時」という言葉が使われるようになり、大きくなったら軍人になると決めていた。
氏子(うじこ)である鳥越神社の祭礼には必ず神輿を担ぎ、子供時代からお祭り騒ぎが好きだった。
昭和14(1939)年
6歳
69連勝の双葉山が安藝ノ海に敗れたとたん、人影のなかった道にラジオを聴いた人たちがドッと現われ、勝負の話をしていたことを記憶している。
近所のいたずら坊主と浅草や上野に遊びに行く。女剣劇全盛時代。ラジオで落語や講談を聴くようになる。
昭和15(1940)年
7歳
三筋町(みすじまち)にあった新堀(しんぼり)尋常小学校入学。『民族の祭典』『美の祭典』(ベルリンオリンピックの映画)に興奮し感動する。国民服が制定され、普段は着物姿だった父はカーキ色の洋服、母もモンペ姿に変わる
昭和16(1941)年
8歳
尋常小学校が「国民学校」になる。「明日の日本を背負うには虚弱すぎる」という理由で特殊学級・幕張学園に移る。2歳から東大病院、その後聖路加病院に通院・入院し、体内の脂肪があちこちに固まりツブツブになる奇病をラジウム療法の治療を受けていた。命の恩人・キューリー夫人の伝記を病床で暗記するほど熟読。
太平洋戦争始まる。ニュースを聞いた父親が「東條の馬鹿め!」と言ったときの表情と声を鮮明に覚えている。「永」という一字の姓が敵性とされることが増える。
昭和17(1942)年
9歳
時代のスローガンは「欲しがりません勝つまでは」。虚弱児童で仲間外れになるので、自分から仲間外れになることを保身術とするようになる。戦時中でも劇場や寄席に行くことが増え、古今亭志ん生の落語、坊主の説教も含めて「語る」「喋る」という魅力に取りつかれる。
金属回収令で仏具が陶製になる。寺の鐘の献納も決まり、あちこちから別れを惜しむ最後の鐘の音が聞こえる。学徒出陣決まる。
昭和18(1943)年
10歳
時代のスローガンは「撃ちてし止まむ」。出征兵士を送る行列が多くなる。上野動物園で猛獣が薬殺される。防空演習で子供もバケツリレーに参加する。ニュース映画では連戦連勝。物資が極端に少なくなり、空腹が気になるようになる。
昭和19(1944)年
11歳
学童疎開。集団疎開ではなく、父と長男は残り、母と子供4人で信州の北佐久郡(現・小諸市)、知人の知人の家に疎開。子供ながら一番年長だったので、母を守らねばという責任を感じる。虚弱児なのと言葉の壁で「疎開っぽ」は地元の子供の間で思いっきり浮く。
昭和20(1945)年
12歳
3月10日東京大空襲で我が家焼失。浅間山の麓で東京の空が赤く映えるのを眺める。南大井国民学校(現・小諸市美南ガ丘小学校)の校庭で敗戦を知る。戦争が終わっても「疎開っぽ」はつまはじきされ続け、「田舎っぺ」に対する悪意は強まるも耐える。
昭和21(1946)年
13歳
旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)入学。汽車で上田に通う。上級生には特攻隊帰りもいた。
父からの仕送りは途絶えがちになり、農家の片隅に母子が身を縮めるように暮らす。夏休みに千曲川沿いの岩村田の沢庵工場に母と2人で手伝いに行き、大きな樽に入り沢庵を漬けることで人生最初の収入を得る。
初恋。汽車通学のセーラー服に胸をときめかすが失恋。学校行事で初めてのアメリカ映画、レイモンド・マッセイ主演の「エイブ・リンカーン」を観る。
昭和22(1947)年
14歳
学制改革により学校教育法が施行される。疎開先の信州から母と生まれて間もない末妹を含めた子供5人、焼跡の東京に帰り、焼け残った稲荷町や柴又帝釈天に近い高砂の寺の世話になる。早稲田中学に転校、都電16番の小島町(こじまちょう)停留場から早稲田に通う。教室不足のため、当時は三部授業であったと秋山ちえ子との対談集で語っている。コスモスが咲き乱れる頃、元の場所に父が建てたバラックが完成し、再び一家水入らずで暮らせるようになる。
焼跡で水道の鉛管を掘って売ったお金で部品を買い鉱石ラジオを組み立てる。この頃、そんな少年たちグループのボス的存在「車坂の田所」と呼ばれた田所康雄、後の渥美清と出会う。進駐軍放送で映画『南太平洋』の中の「魅惑の宵」を聴き、美しいメロディに感激する。ミュージカルの存在を知る。
イタリア映画「自転車泥棒」に泣く。自転車を盗みたいくらい欲しかった。鉱石ラジオで三木鶏郎(トリロー)のNHKラジオ人気番組『日曜娯楽版』を聴き、コントを書いて投稿するようになる。採用されるとコント1本に付き350円もらえ、近所の金箔屋のリヤカーが付いたままの自転車でNHKに届けに行ったこともあるという。
疎開していた間に落ちた学力の差を取り戻せず、神田や新宿で映画を見て過ごす時間が増える。淀川長治編集長・雑誌『映画之友』(後に『映画の友』に変更)編集部主催の「友の会」に通うようになり、似顔絵を投稿していた和田誠の名前を知る。淀川長治・和田誠・永六輔は誕生日が同じ4月10日である。
昭和23(1948)年
15歳
勉強よりアルバイト優先になる。アイスクリーム売り、宝くじ売りなどを経て三越劇場の照明助手、人形町の松坂屋履物店など職種が広がる。履物屋のアルバイトでは、下駄を花街(かがい)の葭町(よしちょう)の見番(けんばん)に届けていた。学生服でぽっと赤面したりするのをお姐さんたちにカワイイと言われ、おひねりやお年玉などいただき、粋な暮らしに憧れる。このとき小唄と三味線の音色に親しんだことが後々役立つ。
日曜日の朝、上野鈴本演芸場で開かれる若手勉強会で桂小金治の「大工調べ」を聴き、刺激を受ける。
昭和24(1949)年
16歳
早稲田高校へ。映画研究部を作り、SKD(松竹歌劇団。当時の本拠地は浅草・国際劇場)に通い、舞台装置を描き写すほど熱中する。歌舞伎や文楽にも通い、初代吉右衛門や文五郎の舞台を観る。文化祭で「勧進帳」や「世情浮名横櫛」を上演、お富を演ずる。
いつも空腹で、いつも女学生に胸ときめかせていた。友達の家を転々としていたが、両親はひたすら黙ってみていてくれる。
昭和26(1951)年
18歳
民放ラジオ開局。映画・歌舞伎・ショーに夢中だったが、舞台裏をのぞくチャンスが増えるにつれ将来を考え、早稲田大学の史学に目標を定める。この選択によって後年、吉永小百合の先輩になる。
昭和27(1952)年
19歳
早稲田大学第二文学部入学。『日曜娯楽版』の台本書きがアルバイトの域を超え、講義の間も仕事に精を出す。戸塚の原っぱにある箱根山のてっぺんでよく昼寝をする。
早大では在学中からすでに名を知られていたジャズピアニストの中村八大、俳句研究会の大橋巨泉、短歌研究会の寺山修司がいた。この頃には仕事が忙しく大学に顔を出せなくなり、同じように忙しかった中村八大と共に「学費滞納」で掲示板に貼り出される。
三木鶏郎の「トリロー文芸部」から誘われ正社員になる。早稲田大学を中退し、本格的に放送の仕事に携わる。ちなみに「六輔」という名前はコントを書きながら出演していた子供番組の役名がそのままペンネームになる。これ以後「永六輔」としての人生が始まる。市ヶ谷にあった三木鶏郎宅に居候する。
昭和28(1953)年
20歳
テレビ放送開始。NHKに続き民放開局も相次ぎ、トリロー文芸部がひっぱりだこになる。先輩のいないジャンルのこともあり、縦横無尽に仕事をする。阿木由紀夫(後の野坂昭如)がマネージャーとして入社。民放ラジオ制作会社「冗談工房」設立され、社長・永六輔、経理担当専務・野坂昭如という体制でほどなく会社傾く。この会社に入ってきたのが後の五木寛之である。
  この頃伝説のアメリカ風アパートメント、赤坂・乃木坂、通称「テキサスハウス」(花岡アパート)に出入りするようになる。ここで初めて洋式トイレの使い方を知る。
昭和29(1954)年
21歳
四ツ谷若葉町の4畳半のアパートに野坂昭如とバトンタッチするかたちで引っ越す。初めての家賃生活。町内に住んでいた演劇評論家で小説家の安藤鶴夫との縁深まり影響を受ける。
ギャグを手伝いに通った東宝撮影所で「七人の侍」(監督:黒澤明)のオーディションを受ける。新派や踊りの会の舞台監督をする。毎日2本ずつ放送台本を書き、日本テレビだけでも1週間に10本書く。スタジオの片隅やリハーサル・ルーム、ピアノの下、どこでもすぐ寝られる特技を身に付ける。1週間徹夜に挑戦する。
芥川也寸志・團伊玖磨・黛敏郎による「三人の会」の映画音楽の検尺(録音のためのフィート数を計算する)の助手をし、黒澤監督の片腕と言われるスプリクター・野上照代に仕事を教わる。
この年暮れの同時刻、NHKを始め民放3局、どの局を回しても永六輔の脚本になるよう企てる。徳川無声の日記に「永六輔はなはだ生意気なり」と書かれる。
昭和30(1955)年
22歳
「放送作家」という肩書がつくようになる。ワタナベ・プロ創立。テレビ界が落ち着いてきて、この世界で食べていける自信がつく。Tシャツを自分で染め、PXからの横流しのボロボロのジーンズに雪駄(せった)のスタイルでスタジオ入りをしていたと野坂昭如は後年エッセイに書いている。
昭和31(1956)年
23歳
酒井昌子と出逢い電撃結婚。初デイトは六輔の提案で「明日1時、有楽町のアマンドで逢いましょう」。昌子はエイロクスケという男性との初デイトを後にこう書いている。「(約束の)1時、4分過ぎにアマンドに飛び込むと、入口のレジの前で、腕時計を睨みながら、後1分過ぎたら代金を払おうと、片手をポケットに突っ込んで立っている彼を見た」(『貴女と二人で』白馬出版。1972年)。
美智子妃(現・皇后)の生家の側、五反田・池田山の風呂なしアパートに引っ越す。地方回りの舞台監督で生計を立て旅暮らしが中心になる。妻・昌子は、北京育ちの引き揚げ体験者であり、銭湯の帰りに五反田駅裏の餃子屋へ寄るのが楽しみという慎ましい新婚生活からスタートする。質屋を面白がり、夫が毎日帰らないという生活にびくともしない伴侶を得て、周りからも「結婚してからよくなったネ」と言われるようになり、マルチな才能を一気に開花させていく。
昭和32(1957)年
24歳
ディズニー映画の日本語版作りの仕事に携わる。生涯の女友達・黒柳徹子に初めて出会う。日本テレビの音楽番組で大橋巨泉、前田武彦と会う。テレビの仕事はバラエティがメインになる。
昭和33(1958)年
25歳
テレビばかりでなく、舞台監督の仕事も精力的にこなし、地方巡業の「ブタカン」で日本中を歩く。その後、労音(勤労者音楽協議会)、特に大阪労音の仕事で行動範囲はさらに広がる。、
昭和34(1959)年
26歳
偶然、有楽町日劇(当時)前で中村八大に再会。そのまま八大の家に行き、八大が作曲した映画のための挿入歌10曲を徹夜で作詞する。その中の1曲「黒い花びら」を水原弘が歌いヒットとなり、第1回レコード大賞受賞。レコード会社に属さないフリーランスの作詞家・永六輔、作曲家・中村八大誕生する。以来、「六・八コンビ」で次々とヒット曲を作る。
日本のテレビで初の音楽バラエティ番組、日曜日夕方30分生放送の『光子の窓』(主演:草笛光子、日本テレビ)に携わる。演出はその後「イレブンPM」「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」のプロデューサー:井原高忠。NHKのディレクター(当時)末盛憲彦と組んだ『夢であいましょう』の前身番組『午後のおしゃべり』も始まり、才能豊かな仕事仲間に恵まれる。
長女・千絵誕生。現・国立劇場楽屋口近くの隼町のアパートに引っ越す。風向きによっては泉屋クッキー工場から流れる甘い匂いが部屋中に漂うこともあったという。
昭和35(1960)年
27歳
音楽:いずみたく、作・演出:永六輔、美術:やなせたかしで小さなミュージカル『見上げてごらん夜の星を』大阪労音で初演。3年後、坂本九主演で再演される。挿入歌「見上げてごらん夜の星を」がヒットし、「作詞:永六輔、作曲:いずみたく」というもう一つの運命的コンビが誕生する。
昭和36(1961)年
28歳
4月、NHKテレビドラマ『若い季節』(原作:小野田勇、脚本:田波靖男)、日曜日の夜8時から45分の生放送で始まる。テーマ曲「若い季節」は作詞:永六輔、作曲:桜井順、編曲:宮川泰、歌:ザ・ピーナッツ。「♪ワーオ、ワーオ」という斬新な歌詞とメロディで始まるドラマに日本中の茶の間が釘付けになった。
8月、NHKテレビのバラエティ・ショー番組『夢であいましょう』が始まる。土曜日の夜10時台の30分生放送。作・構成:永六輔、音楽:中村八大、演出:末盛憲彦、タイトル画:吉村祥、司会は本業が服飾デザイナーの中島弘子、出演者は黒柳徹子、渥美清、三木のり平、E・H・エリック他。オープニングのタイトルバックとエンディングにはテーマ曲「夢であいましょう」が流れた。
次女・麻理誕生。初めての著書『一人ぼっちの二人』(えくらん社)を出版。
『夢であいましょう』の「今月のうた」(全て作曲・編曲:中村八大、作詞:永六輔)で坂本九が「上を向いて歩こう」を歌い大ヒットとなる。
昭和37(1962)年
29歳
『夢であいましょう』の「今月のうた」で、ジェリー藤尾が「遠くへ行きたい」を歌いヒット、その後様々な歌手に歌い継がれる。さだまさしは2016年11月刊行の著書『笑って、泣いて、考えて。~永六輔の尽きない話』(小学館)の中で「この歌を超える旅の歌は、いまだない」と言っている。ちなみにさだまさしの誕生日も永と同じ4月10日である。  
  大阪労音でミュージカル『歯車の中で』(主演:草笛光子、作曲:芥川也寸志、作:永六輔)を手掛ける。海外への旅が増える。
昭和38(1963)年
30歳
中村八大が父親になり、『夢であいましょう』の「今月のうた」で「こんにちは赤ちゃん」を梓みちよが歌い、大ヒットとなる。第5回レコード大賞受賞。
「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」という名前で世界的にヒットするが、日本語の無力さを痛感する。
昭和39(1964)年
31歳
春、渋谷・並木橋(当時)に転居。東海道新幹線開通。東京オリンピック開催、レポーターとして開会式現場から中継する。約1年大阪1人暮らしをする。大阪朝日新聞に芸能百年史「わらいえて」を連載する。桂米朝独演会で客席にいた小沢昭一と2人舞台に呼び上げられる。この時が初対面でこれ以後、早稲田の先輩との半世紀にも及ぶ交友関係がスタートする。
昭和40(1965)年
32歳
テレビへの熱が少し落ち着き、活字の仕事増え始める。上方芸能・地唄舞にのめり込む。
かつて在籍した「トリロー文芸部」のような気楽な塾「にこにこ堂」を始める。放送作家・脚本家・作詞家などに興味ある学生が自由に出入りできるスペースとして六本木交差点角の喫茶店・アマンド裏にマンションの一室を用意する。1期生・中井征勝(「永六輔の足跡・写真館」カメラマン)と2期生・﨑南海子(TBSラジオ『誰かとどこかで』詩人)が共に記憶している永の最初の言葉は、「僕は人を育てる気はない。けれどもチャンスを与えることはできる」。「先生」と呼ぶことも一切禁止する。
大阪で見知った芸人を東京に紹介するライブハウス「ばらえ亭」を赤坂一ツ木通りの喫茶店・アマンド地下で毎月催す。
昭和41(1966)年
33歳
頻繁に海外旅行に出かける。ブロードウェーの洗礼を受け、日本のミュージカルから距離を置く。
雑誌『話の特集』(発行・編集:矢崎泰久)に原稿を書き始める。これ以後、本格的に活字の世界に入る。田中一光、和田誠、山下勇三、灘本唯人、山口はるみなど公私共に刺激し合える仲間と出会う。
昭和42(1967)年
34歳
TBSラジオ番組『どこか遠くへ』始まる。オーピニング曲は「遠くへ行きたい」の尺八バージョン。テレビ番組『わらえてい』出演(毎日放送、1968年3月終了)。
昭和44(1969)年
36歳
TBSラジオ『どこか遠くへ』が『永六輔の誰かとどこかで』のタイトルになり、当時TBSアナウンサーだった遠藤泰子とのコンビが始まる。同じくTBSラジオの深夜番組『パックインミュージック』のパーソナリティになる。土曜深夜、もう1人のパーソナリティはブロードウェーで知り合った振付家の中川久美。1971年終了。
いずみたく作曲・編曲「にほんのうた」シリーズ全52曲(歌:デューク・エイセス)の作詞を区切りとして作詞家としての活動を一旦停止する。
『芸人 その世界』(文藝春秋、現在は岩波現代文庫)を出版。文藝春秋の「その世界」シリーズはその後『役者その世界』『タレントその世界』『スターその世界』と続く。『芸人たちの芸能史』(番町書房)出版。父・忠順と共著『街=父と子』(毎日新聞社)出版。70年に『旅=父と子』『女=父と子』を出版し、父と子三部作完結。
「東京やなぎ句会」に入会。宗匠・入船亭扇橋、メンバーは江國滋、大西信行、小沢昭一、桂米朝、加藤武、三田純市、柳家小三治、矢野誠一等多士済々の面々。俳号は住んでいる地名「並木橋」、原宿に転居後は「六丁目」。病に倒れるまで月例句会無欠席だったと矢野誠一は追悼エッセイで書いている。
昭和45(1970)年
37歳
テレビ番組『六輔さすらいの旅・遠くへ行きたい』(日本テレビ系列)が始まる。番組制作は同年TBSから独立して創設された「テレビマンユニオン」。第1回のディレクターは創設に関わった今野勉(本サイト「永六輔論」参照)。開始当時の放送時間は日曜日22:30~23:00。オープニング曲は六・八コンビの名曲「遠くへ行きたい」。71年以降は不定期に出演。番組名も『遠くへ行きたい』に変更されたが、現在も継続中の長寿紀行番組である。
浅田飴のテレビCFに出演する。「せき・こえ・のどに浅田飴」のテレビCMでの声と喋り方で、幅広い年齢層に支持される。以後1983年、1996年の13年おきに出演。生涯において関わったCMは「浅田飴」と「桃屋」2社のみ。
昭和47(1972)年
39歳
旅エッセイ『終りのない旅』(日本交通公社)を出版。小沢昭一との共著『陰学探検』(創樹社)出版。旅先での写真・エピソード満載の中年アイドル本『六輔その世界』(写真:大石芳野、アートディレクション:和田誠・山下勇三、話の特集)出版。
  TBSテレビ『私の感情旅行~永六輔 一番遠い旅』の番組企画(放映4月1日、8日)で長年の夢だった世界一周旅行をする。できるだけ遠回り、短時間で帰国するため、飛行機を乗り継ぎホテル宿泊は1泊のみ。「土曜ワイドラジオTokyo」生放送翌日の日曜日深夜羽田発6日間世界一周。計142時間、飛行時間71時間。金曜日羽田着、土曜日早朝いつものようにTBSラジオのスタジオのマイクの前にいた。
昭和48(1973)年
40歳
雑誌『婦人公論』連載の自筆イラス・トエッセイをまとめた『妻一人娘二人猫五匹』(中央公論社)を出版。この頃、互いに師と仰ぐ共通の知人、島原在住の古代史研究家・宮﨑康平の紹介で、「グレープ」デビュー直前のさだまさしと初めて会う。
「高石ともや&ナターシャセブン」プロデューサー・榊原詩朗、高石ともやと3人で企画した「宵々山(よいよいやま)コンサート」を京都で開催。第1回から2011年の30回迄すべて参加する。
昭和49(1974)年
41歳
『妻は夫にさからいつ 夫は妻をいたぶりつ』(イラスト・山下勇三、学習研究社)より出版。山下勇三による妻・昌子へのインタビューや、妻本人のエッセイから、家庭での永六輔の素顔を垣間見ることができる。
中村八大プロデュースで歌手デビュー。名曲「生きているということは」「生きるものの歌」(作曲・編曲:中村八大、作詞:永六輔)が生まれる。全曲「六・八コンビ」で、歌手・永六輔のLP『六輔その世界』発売(東芝レコード)。
中年御三家の1人として歌手活動が増える。12月6日伝説の武道館ライブ「花の中年御三家 ノーリターンコンサート』に小沢昭一、野坂昭如と共に歌手として出演し、武道館を満員にする。司会は愛川欣也と中山千夏。
昭和50(1975)年
42歳
小沢昭一が主宰する芸能座の旗揚げ公演のために脚本を書いた『次郎長伝・伝』の公演全国巡業に、1人の役者として参加し、一座と共に旅暮らしする。初演は3月広島。5月紀伊國屋ホール東京公演初日は英国エリザベス女王来日記念パレードで交通規制があったにもかかわらず満席、熱気に包まれた。
小説『亜香ちゃん』(文藝春秋)を出版。『僕のいる絵葉書』(写真:大石芳野、中央公論社)出版。
昭和51(1976)年
43歳
1976年~1983年まで、ナイターオフの時期に、TBSラジオ番組『六輔七転八倒』に出演。山田洋次監督、渥美清主演の映画『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』に東京・根津神社の境内でクジラ尺を売っている寅さんを注意する警官役で出演。
昭和52(1977)年
44歳
メートル法反対、尺貫法復活運動の日々を書いた『クジラとカネ売ります』(講談社)出版。志半ばで飛行機事故で亡くなった身障児学級教師とその教え子たちとの触れ合いを描いた映画『春男の翔んだ空』で主役・野杉春男を演じる。
昭和54(1979)年
46歳
NHKテレビ番組『テレビファソラシド』に進行役として出演。あらゆる分野の情報を取り入れた新趣向のバラエティショーで演出は『夢であいましょう』の末盛憲彦。レギュラーはNHK初出演、黒メガネのタモリ、アイドル・近藤真彦の他にNHK女性アナウンサーをバラエティ番組に初起用、加賀美幸子や頼近美津子なども出演。
昭和56(1981)年
48歳
原宿に転居。渋谷ジャンジャンで正午から9時間、「六輔七転八倒九時間」を敢行。「浅田飴生体実験」と称してトイレに行く以外1人で喋り続ける。客は途中出入り自由。頭はクタクタでも身体は疲れていない状態で興奮を鎮めるのに四苦八苦したと実況中継本『熱弁詭弁東京弁雄弁駄弁安全弁』(講談社)の中で報告している。
昭和57(1982)年
49歳
文化放送の深夜ラジオ番組『さだまさしのセイ!ヤング』に出演。「何でこんな夜中に俺を喋らせるんだ」と言いながら、出るとたっぷりと喋り倒していってくれたと、さだまさしは著書『笑って、泣いて、考えて。』の中で語っている。
昭和58(1983)年
50歳
長女・千絵結婚。「花嫁の父」は式のとき片時もジッとしていず、又披露パーティのときは構成・演出・司会全てをこなしたため、次女・麻理は自分のときにこれををもう一回やらせるのはやめようと思ったという。
昭和60(1985)年
52歳
坂本九、日航機墜落事故で事故死(享年43)。9月9日芝増上寺での葬儀委員長を務め、弔辞を読む。
昭和61(1986)年
53歳
実家の最尊寺において寄席「永住亭」を定期的にひらく。「肝煎・永六輔」で30年以上継続している。初代席亭は永忠順。2016年からは肝煎・永六輔の名はそのまま、遺志を継いだ地元青年会が主催し、最尊寺で年2回ひらかれている。
  雑誌「婦人公論」連載を元に『六・八・九の九~坂本九ものがたり』(中央公論社)を出版。
昭和62(1987)年
54歳
「話の特集」に連載された「無名人名語録」を単行本『無名人名語録』(講談社)として出版。名語録シリーズが始まり、ベストセラー『大往生』へ繋がっていく。
平成元(1989)年
56歳
昭和天皇崩御。元号が昭和から平成へ。
平成3(1991)年
58歳
パロディ小説『真紅の琥珀』を出版(講談社)。文庫化の際の解説は泰子サンこと、遠藤泰子。
TBSラジオ番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』スタート。長寿番組となり24年半続く。初代アシスタントはTBSアナウンサーの長峰由紀、以後、雨宮塔子、堀井美香、外山惠理と続く。もう1人のアシスタント、はぶ三太郎は初回から最終回まで出演。
NHK教育テレビ(現・Eテレ)番組『視点論点』に定期的に出演し始める。
平成4(1992)年
59歳
NHK放送文化賞受賞。初めての孫誕生。
5月11日、いずみたく死去(享年62)。翌月6月10日、中村八大死去(享年61)。盟友2人を立て続けに喪う。いずみたくと中村八大は誕生日が共に1月20日である。テレビ番組『2×3が六輔』に出演する(日本テレビ、1993年12月終了)。
平成5(1993)年
60歳
次女・麻理結婚。神田育ちでパリ在住の元プロの自転車選手・加藤一画伯にすすめられ、還暦記念にオートクチュールのロードレーサーを手に入れる。二番目の孫誕生。
平成6(1994)年
61歳
NHK教育テレビ(現・Eテレ)番組『手話ニュース』に定期的に出演し始める。手話でどこまで表現できるかに楽しみながら挑戦した手話通訳者・丸山浩路とのコラボが話題になる。
『大往生』(岩波新書)が200万部のベストセラーになる。その後、岩波新書シリーズ『二度目の大往生』『職人』『芸人』『商人』(あきんど)『夫と妻』『親と子』『嫁と姑』『伝言』迄全9冊を出版。現在(2017年)迄に累計400万部を超している。都民文化栄誉章受章。
平成7(1995)年
62歳
阪神淡路大震災。被災障害者支援を目的として発足した「ゆめ風基金」に呼びかけ人として歌手・小室等と一緒にボランティア活動に関わる。
三番目の孫誕生。絵本『こんにちは赤ちゃん』(すえもりブックス)を出版。加藤一画伯と自転車についての対談集『自転車一辺倒~風と彩(さい)と人生と』(講談社)を出版。
平成8(1996)年
63歳
NHKBSで『大往生』がドラマ化される。原作:永六輔、脚本:中島丈博、演出:深町幸男。出演した森繁久彌にとっては最後の主演ドラマになる。他に植木等、内海佳子、竹下景子、柄本明など。
毎日新聞都内版にコラム「永六輔その新世界」を連載。ラジオの『土曜ワイドラジオTOKYO』放送当日朝刊に、2015年迄19年間、年末年始も休むことなく続いた。
渥美清(享年68)死去。四番目の孫誕生。男の子4人の祖父になり、女の子と男の子の違いに驚く。
平成9(1997)年
64歳
福原義春(現・資生堂名誉会長)との対談集『旅に生きる、時間(とき)の職人』(求龍堂)を出版。限られた時間での対談にも関わらず、「出逢い」を感じさせる会話が交わされている。
黛敏郎急逝に伴い、故人の遺言で、黛が33年間企画と司会をしていた音楽テレビ番組『題名のない音楽会』(テレビ朝日)の代理司会者を4か月間務める。
三波春夫のために作詞した「明日咲くつぼみに」(作曲・編曲:久米大作)発売。
TBSラジオ『誰かとどこかで』から生まれた本、『七円の唄 誰かとどこかで』(共編者:﨑南海子・遠藤泰子、朝日出版社)を出版。その後シリーズとして第8弾迄出版。
日本シャンソン協会初代会長・石井好子プロデュースの「パリ祭」の司会をする。以後2009年まで続く。
平成11(1999)年
66歳
郵便切手「わたしの愛唱歌」シリーズ第9集で、50円切手「上を向いて歩こう」(イラスト:和田誠)が発売される。全国の刑務所での抱腹絶倒講演をまとめた『悪党諸君』(青林工藝社、出版プロデュース:鴇巣龍彦)出版。
さだまさしのために作詞した「ふ」が、さだまさし25周年記念アルバム『季節の栖(すみか)』に収録される。作曲:さだまさし、編曲:服部隆之。この「ふ」は2016年11月発売のCD、『永縁(えいえん)~さだまさし 永六輔を歌う』にも収録されている。
穂口雄右:作曲、永六輔:作詞の『逢いたい』発売。歌詞は全て「逢いたい」のみ71回。『土曜ワイドラジオTOKYO』で流したところ話題になり、リスナーから逢いたい人への手紙が殺到。岸田今日子・宇田川清江・加藤武のエッセイなども収録した『逢いたい』(大和書房)という本になってまとめられる。
平成12(2000)年
67歳
全国の職人を訪ね歩いて取材した雑誌「サライ」連載をまとめた『永六輔・職人と語る』(小学館、構成:藍野裕之)を出版。ボランティアについての本、『「無償(ただ)」の仕事』(講談社+α新書)を出版。
岩波新書『夫と妻』『親と子』同時発売を記念して、北は北海道・旭川から南は沖縄・那覇迄、3か月で七十数軒の本屋さんでサイン会敢行。当時の担当編集者は「いつも現地集合・現地解散。神出鬼没で現れた瞬間、書店の周りが永六輔ワールドになった」と語っている。キャッチフレーズは「町の本屋さんの応援団」。
放送タレントとしてTBSラジオ『土曜ワイド』などで庶民感覚あふれる内容と語り口でラジオ放送に一層の親しみと楽しみを与え続けてきたことを評価され、第48回菊池寛賞受賞。
平成13(2001)年
68歳
2月、岩波新書『嫁と姑』刊行記念で、全線開通したばかりの大江戸線一周マラソンサイン会をする。代々木駅をスタートし最後は都庁前駅、朝10時から夕方6時迄、一日に7軒、本屋さん到着と同時にトークを始めながら回り終える。
6月、妻・昌子、末期胃がんで余命宣告される。9月『さよなら芸能界』(朝日文庫)出版。10月、30年以上お付き合いのあるラジオの大先輩・秋山ちえ子と共著『ラジオを語ろう』(岩波ブックレット)出版。TBSラジオ『秋山ちえ子の談話室』が45周年を迎えたばかりだった。
平成14(2002)年
69歳
1月6日、妻・昌子死去(享年68)。最後の2か月間は在宅医療スタッフの協力のもと自宅で娘2人と一緒に看取る。10月『生き方、六輔の。』(矢崎泰久との共著、飛鳥新社)を出版し、その後『老い方、六輔の。』『死に方、六輔の。』の三部作となる。10月『妻の大往生』(中央公論社)を出版。
平成15(2003)年
70歳
大衆芸能の奨励と振興を図ることを目的として、公益財団法人台東区 芸術文化財団が創設した浅草芸能大賞受賞(第19回)。
平成16(2004)年
71歳
TBSラジオ『土曜ワイド』で、ブラジル・サンパウロから4時間半の中継生放送をする。徳川夢声の生地である益田市の市民有志が、夢声にちなんで話芸に秀でた人を表彰する徳川無声市民賞受賞(第4回)。
  宮部みゆき原作、大林宣彦監督の映画『理由』に「フラワーロード」店主役で出演。
平成18(2006)年
73歳
『赤坂檜町テキサスハウス』(写真・大竹省二)を出版。写真家・大竹省二が主人公、舞台は1950年から60年頃。まだ焼跡が残る赤坂・乃木坂のアメリカ風木造二階建てアパートに集った女優・歌手・作家・プロ野球選手、テレビ草創期の熱い日々を関係者への取材、インタビューをもとにドキュメントタッチで構成した昭和の記録。20代、エネルギッシュで等身大の永六輔が登場する。   
  『上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史』(矢崎泰久との共著、飛鳥新社)出版。
平成19(2007)年
74歳
永六輔作品集CD2枚組『上を向いて歩こう』(絵・ジャケットデザイン:和田誠)をEMIミュージック・ジャパンから発売。全50曲。「黒い花びら」(水原弘)から「芽生えて、そして」(越路吹雪)、「帰ろかな」(北島三郎)、「生きるものの歌」(永六輔)まで、懐かしい当時の歌声をそのまま聴くことができる。
平成20(2008)年
75歳
放送批評懇談会が日本の放送文化の質的な向上を願い、優秀番組・個人・団体を顕彰するために創設されたギャラクシー賞45周年記念賞受賞。
平成22(2010)年
77歳
年明け早々、TBSラジオ『久米宏のラジオなんですけど』にゲストとして出演。生放送中「昔は体で秒針を刻んでいた。最近それができない。呂律が回らないのもさることながら、体の中の秒針が動かないというのはショックだった」と打ち明ける。
  前立腺がん、パーキンソン病を公表。暮れ、NHKFMラジオ『きたやまおさむのレクチャー・アンド・ミュージック』に2回続けて出演し、パーキンソン病のキーパーソンとしてイキイキと話す。
平成23(2011)年
78歳
東日本大震災。「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」の歌が口ずさまれ、多くの人びとの心を癒し、励ました。
平成24(2012)年
79歳
小沢昭一死去(享年83)。1973年から始まったTBSラジオ番組『小沢昭一の小沢昭一的こころ』終了。『お話供養』(光文社)を出版。
平成25(2013)年
80歳
7年ぶりにテレビ番組『遠くへ行きたい』の「笑う京都に!福来る」前後篇に出演。車椅子介助の孫・育之介と一緒の取材旅行だった。
  TBSラジオ『誰かとどこかで』の番組を元にした『男のおばあさん』『男のおばあさん2』(大和書房)を出版。その後、体調不良で番組を終了。約45年間続き12,629回目であった。それ以降、季節ごとに特番として「初場所」「春場所」・・と続き、2016年9月、「千秋楽」で幕を閉じる。番組は45年間「桃屋」の単独提供であった。
平成26(2014)年
81歳
TBSラジオ『誰かとどこかで』の放送をCD化した『永六輔の誰かとどこかで 1986年①』(プロデュース:橋本隆、TBSラジオ&コミュニケーションズ)が発売される。
平成27(2015)年
82歳
1991年スタート以来続いたTBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』が1,275回で最終回を迎える。毎週月曜日夕方の番組に引っ越し、タイトルも『六輔七転八倒九十分」となるも体調戻らず、2016年9月終了。
野坂昭如(享年85)死去。
平成28(2016)年
83歳
2月、「徹子の部屋」に大橋巨泉と一緒に出演する。番組出演回数は計39回。
7月7日死去。5日後の7月12日に大橋巨泉死去(享年83)。
久米宏は7月16日『久米宏のラジオなんですけど』で永六輔追悼特集を組み、「永さんはラジオの神様。聴き続けて洗脳されてここにいる」と語った。翌週23日の放送では「永六輔・大橋巨泉、この2人がいなくなると防波堤がなくなった、はしごを外された感じがするんです」とコメントした。
8月31日青山斎場で「六輔 永(なが)のお別れ会」が催される。入り口には赤い私設ポストが置かれ、参列者がお別れの手紙を投函した。進行役は北山修。黒柳徹子ほか8人の弔辞、前田憲男による「六・八コンビ」スタンダード・ナンバーのピアノ演奏が流れ、ジェリー藤尾が「遠くへ行きたい」を献歌、式の最後には林英哲による献納太鼓が鳴り響いた。
平成29(2017)年
生家・最尊寺のお墓に妻・昌子と共に眠る。
●参考資料――本サイトの「仕事年譜/全書籍」及び以下のリスト参照
写真集『幕末の素顔~日本異外史』毎日新聞社編 毎日新聞社(1970.11)
『旅支度旅は六輔世は情け~永六輔の有情の旅とミニガイド観光地三〇〇選』週刊朝日編集部編 朝日新聞社(1978.3)
『上を向いて歩こう~奇跡の歌をめぐるノンフィクション』佐藤剛著 岩波書店(2011.7)
『黄昏のビギンの物語~奇跡のジャパニーズスタンダードはいかにして生まれたか』佐藤剛著 小学館新書(2014.6)
『永六輔の伝言~僕が愛した芸と反骨』矢崎泰久著 集英社新書(2016.8)
『新潮45』2016年9月号〈追悼永六輔 「旅の達人」との半世紀〉矢野誠一
『ユリイカ』2016年10月号〈特集永六輔~上を向いて歩こう〉
『笑って泣いて考えて。~永六輔の尽きない話』さだまさし著 小学館(2016.11) 
『大遺言~祖父永六輔の今を生きる36の言葉』永拓実著 小学館(2017.7)               
『週刊金曜日』2017年7月7日号〈永六輔一周忌追悼!夢であいましょう〉
『父永六輔を看取る』永千絵著 宝島社(2017.8)
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